孤独と憎しみからの解放と家族の回復

 

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」使徒の働き16章31節
この御言葉が私を支えました。
イエス様からの多くの恵みと祝福を心から感謝致します。イエス様の大きな愛によって、私は解放されてきました。私のうちにあった、憎しみも、悲しみも、苦しみも、孤独も、すべての事柄から解放されました。

生い立ち
私は熊本市で生まれ育ちました。父は左官業を営み、母は専業主婦でした。母は知的障害と共に、統合失調症を患(わずら)っています。私の上に姉 がいたのですが、私が生まれる前に幼くして亡くなっていました。両親は小さな娘を失ったため、私が生まれてくる事をとても待ち望んだそうです。
私に小さい頃の記憶があるのが三歳前ぐらいからですが、もうその頃には、父と母は別居状態でした。父は、毎日朝 と夕方だけ、ほんの一時顔を見せます。父の居ない夜にとても寂しくなり、いつも大声で泣いて、父を呼んでいました。しかし、父は夜、帰って来てくれる事は ありませんでした。いつも家に居てくれる父が欲しかったのを覚えています。
この頃の日中の母は、私に対して何かしら気に入らないと、虐待をするのでした。叩いて、私の頭の髪の毛をわしづかみにして8畳の部屋をすごい勢いで引きずり回すのでした。
怖くて、痛くて、とても辛くて、腹の底から大声で泣き叫んでいました。
それは頻繁(ひんぱん)でした。母からの虐待に気づいた父は、見るに見かね、父の姉に、一緒に住んで私の面倒を 見てくれるように頼んでくれました。それで伯母と母と私の同居が始まりました。伯母は、その頃交通事故の後遺症で、2、3年程床に伏しがちでしたが、それ でも母の虐待から体を張って守ってくれていました。
母は病気のせいもあってか、気性が非常に激しく、家の中で暴れる他に近所に住む私の友達のお母さんにも暴力をふ るったりした事もありました。大暴れする事が数年続き、周りもどうしようもなくなり、結局、母は精神科の病院へ十数年長期入院する運びとなりました。私は こんな母がとても憎く、母の存在を受け取れませんでした。父の存在も、同じ思いでした。父は母と離婚しないにしても、身勝手で、別の女性と暮らしていまし た。そんな父も赦せませんでした。また、父はたくさんの借金をつくって、家族親族にも迷惑をかけました。
普通の両親がほしくて、私の心の中は「どうしてこんな両親の間に生まれて来たのか? 神様は不公平だ。」と呪 い、嘆いていました。幸せそうな友達などの家庭を見ては、羨んでいた自分がいました。しっかりとした両親の間で、愛されて育ちたいという思いが強く、願望 としてありました。小さい頃は両親の事で友達に馬鹿にされる事もありました。入学式に卒業式、授業参観はいつも伯母が来てくれるのですが、幼い私は、周り と比べてしまい、寂しい気持ちでした。
伯母は、母親代わりに色々とやってくれて愛情を注いでくれました。しかし、両親からの愛情を求めていたので、愛 に飢え渇いていました。一人っ子で育ちましたが、死んだ姉が生きていれば、すべてを共有出来て、私の生活も心も変わっていたのではないかと思った時もあり ました。兄弟がほしいと感じたこともありました。私の心の中は満たされず、虚しさがあり、いつも“孤独”でした。

心からの願い
そんな家庭環境に置かれた私は、神様と呼ばれるもの、場所、すべてに敏感で、近くでも遠く離れていても「神様。どうか、父が家に帰って来て、一 緒に暮らしてくれますように。母の病気が治りますように。両親が仲良く、親子三人が一緒に暮らせるようにして下さい。」と心からいつも求めていました。

イエス・キリストとの出会い
高校を卒業後、父の借金に追われる事となり、一般事務の仕事に就き、伯母とも別れ、自立しました。
しかし、二十二歳の時には、世の楽しみにより、二百万〜三百万円程の借金が私にも出来ていました。残ったのは借 金で、心の虚しさは拡がりました。(借金は数年間で完済できました。)心の奥底にある満たされない思いによって、押しつぶされそうでした。死にたい、楽に なりたいという思いで、ある時近くにある教会堂に行き、ひとりで
「神様 助けてください」
とすがる思いでお祈りをしました。
その時、とても気持ちがスーッとして、楽になりました。
それから半年後、勤めていた職場にクリスチャンの女性が新入社員として入社されました。その方からイエス・キリストの十字架による救いを聞き、本物の神様を知りました。
それからしばらくして、ある朝、目覚めた時に突然イエスさまの十字架がわかりました。父なる真の神様はひとり息 子のイエスさまを十字架に架けて死に渡されるほどまでに、私を愛して下さっている。私は命がけで愛されている。神様の大きな愛が霊の内にわかり、感動しま した。福音を聞いて、半年後、イエス・キリストを信じる受け入れのお祈りをしました。私の胸のところにあったぽっかりとした空洞は、そのお祈りで、一瞬の うちに埋まり、“孤独”から解放されました。高校を卒業後、父の借金に追われる事となり、一般事務の仕事に就き、伯母とも別れ、自立しました。
しかし、二十二歳の時には、世の楽しみにより、二百万〜三百万円程の借金が私にも出来ていました。残ったのは借 金で、心の虚しさは拡がりました。(借金は数年間で完済できました。)心の奥底にある満たされない思いによって、押しつぶされそうでした。死にたい、楽に なりたいという思いで、ある時近くにある教会堂に行き、ひとりで
「神様 助けてください」
とすがる思いでお祈りをしました。
その時、とても気持ちがスーッとして、楽になりました。
それから半年後、勤めていた職場にクリスチャンの女性が新入社員として入社されました。その方からイエス・キリストの十字架による救いを聞き、本物の神様を知りました。
それからしばらくして、ある朝、目覚めた時に突然イエスさまの十字架がわかりました。父なる真の神様はひとり息 子のイエスさまを十字架に架けて死に渡されるほどまでに、私を愛して下さっている。私は命がけで愛されている。神様の大きな愛が霊の内にわかり、感動しま した。福音を聞いて、半年後、イエス・キリストを信じる受け入れのお祈りをしました。私の胸のところにあったぽっかりとした空洞は、そのお祈りで、一瞬の うちに埋まり、“孤独”から解放されました。

自殺を止められる
イエスさまを信じて間もない頃、対人関係がうまくいかず、生きていくのがとても嫌になり、もうどうでもよくなった時がありました。不安で眠れな くなり、市販の睡眠薬を一箱飲んで、カミソリで手首を切って死ぬ事にしました。本気で手首を切ろうとした瞬間、私が死んだ後、悲しむ人の幻が見えて、死ぬ 事が出来なくなりました。その後、私の罪と自殺行為に対して深い悔い改めをしました。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きて おられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」ガラテヤ人へ の手紙2章20節

神様への献身
クリスチャンになって、一年程して、神様の為に生きたいという気持ちになりました。献身の祈りを捧げ、海外宣教の重荷が与えられ、宣教師になりたいという強い思いで神学生になりました。
短期の海外宣教でアメリカに行く時がありました。チャーチオンザウェイのプレイヤーチャペルで、これからの導きを祈り求めていたところ、二つの事を神様に語られました。
同じ群れの長崎教会に転会する事と結婚相手でした。相手は教会の兄弟で、あまり仲が良くない男性でした。結婚相手の対象として考えた事は、ありませんでした。意外な語り掛けに、心に秘めて帰国しました。

結婚の成就
いつかは結婚したいと思っていましたが、ノンクリスチャンの時は、複雑な家庭環境の為、諦めなければならないと自分に言い聞かせていました。病の母を持つ私と結婚してくれる相手がいるのか不安でした。
クリスチャンになってから、御言葉が与えられました。
イザヤ書62章の全体で特に4節
「あなたはもう、「見捨てられている。」とは言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている。」とは言われな い。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある。」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得る からである。」
と慰めと励ましを受けました。
また、教会の牧師夫人の助言も頂いて、結婚のための条件を70項目あげて、お祈りするようになりました。
数年後、すべての項目がかなえられて、結婚相手の一つの確認となり、結婚に至りました。相手は、アメリカで示された男性です。ハレルヤ。

母との同居
結婚して、三年が過ぎた頃、母と一緒に暮らしてほしいとの連絡が祖母よりありました。離婚をせず、籍を入れたままの両親でしたが、別居生活30 年余りで、父と母は一緒に暮らせないと言うのでした。それで一人娘の私が強制的に引き取ることになりました。牧師である主人と当時二歳の娘と三人で、釧路 で暮らし始めて一年が過ぎた頃でした。
迎えに行く旅費もない時でしたが、すぐに献金の助けを頂きました。感謝致します。熊本に住む母を迎えに行く出発の日、釧路の家を出る時に、大きな虹が架かっていました。祝福の約束の虹に、主人と感謝しました。
私が六年生の時に母と離れたので、二十年ぶりの同居生活が始まりました。母は釧路に来る数年前にイエス・キリストを信じ、告白をしていました。我が家に来てからは毎週教会の礼拝にあずかっています。

憎しみからの解放
癒され続けている母ですが、病気の母との生活は慣れず、深刻なものでした。何よりも私の内側にある問題が浮上しました。母から受けた虐待による“憎しみ”でした。辛い醜い時を過ごしました。
母は病気のせいもあり、自分がした事を憶えていませんでした。私は鮮明に憶えていて、憤りを覚え、憎しみにかられて、心が痛み、抑えきれず家族にあたり暴れてしまうのでした。何度も何度も母と喧嘩(けんか)をするのでした。落ち着いては悔い改め、謝りました。
しかし、同じ事の繰り返しとなり、幼い頃受けた虐待を赦したいと思う事が出来ないので、母に対する憎しみは、消えませんでした。
一年程してからでしょうか。私に喘息のような症状が許されました。とても苦しくて、辛くて、たまりません。主人にお祈りしてもらったところ、「ばあちゃん(母)を赦してないからだろ」と一言。神様に正直にお祈りしました。
「母から受けた虐待を赦したいと思う事が出来ません。憎しみを持ち続けていることを赦して下さい。そして私の心が、母を赦したいと思えるようにして下さい。」
神様から「わたしがあなたを赦したように、あなたも赦しなさい。」
と語られました。
その頃の教会の中での母が暗い顔をしている姿が思い出されてきました。私のせいで暗い顔になっていると思い、深い悔い改めの祈りへと導かれました。それ以来、母に対する憎しみで苦しむことはなく、私は縛りから解放されました。ハレルヤ。感謝致します。

父との同居
父との同居は、まだ考えていませんでした。父は糖尿病を患っていて、私が知らない間に合併症が進んでいました。心筋梗塞二回、脳梗塞、網膜症に なり、車椅子の状態になりました。父にはまだ借金があり、親戚にもだいぶ迷惑をかけていました。高額な入院費、父を迎えに行く旅費もなく、私たち夫婦は困 り果てました。突然降って来た高額な医療費に私たち夫婦は泣き叫び、主にすがり祈りました。神様の助けと兄弟姉妹のお祈りと御献金を頂いて、父との生活が 実現しました。本当に感謝致します。
父と母は、涙の再会でした。住み慣れた土地を離れ、釧路で暮らすというのは父にとって、とても辛いようでした。父は釧路に来てから天に召されるまでの四年半、いつも熊本に帰りたがっては、私たち家族を困らせていました。

父の介護
自宅療養となった父は毎週、教会の礼拝に出席しました。父も随分前にイエス・キリストを信じ、告白していました。
糖尿病が初期の頃、入院先で私が福音を伝え、癒しの祈りと賛美のテープを通して、神様に触れられ、心を開いていました。
しかし、釧路に来てからの父は熊本に帰りたくて、頑(かたく)なでしたが、最後のほうでは、進んで教会の礼拝の 為に、着替えて待っていました。主人は、父の入浴介助、世話等、教会に行く時や病院に行く時などの外出には、父を背負い、良くしてくれていました。主人の 事をとても頼りにしていた父は、「清、清」と主人の名前を寝床からいつも呼んでいました。
父と母は同じ部屋で、母が父の食事の補助、着替えなどをし、家族全員が父の面倒を看ました。父の病気を通して、神様が父を私たちのところに、帰してくださいました。
父は意識のある時に「ありがとう。」と言って、その後天に帰りました。天に召された時には、私の内にあった父に対する憎しみ、赦せない心は消え去っていて、まだまだこの地上で一緒に暮らしたいと切望し祈りました。

祈りの答え
神様は、私がかつて独身の時に祈った祈りを憶えてくださっていました。バラバラだった父と母、私を一つとしてくださいました。結婚してから共に両親と住めたことは、宝となりました。
人間的には不可能な事も、主は御手を動かして、栄光を現して下さいました。私を孤独と憎しみから解放するだけでなく、両親にも夫婦の回復、私に親子関係の回復を、すべて与えて祝福してくださいました。神様に心から感謝をお捧げ致します。

森 シオン
(月刊「雲の間にある虹」2010年3月号に掲載より転載)