学ぶのに最もふさわしい時

 イエスさまを手本にして生きるとはなんと難しい事なのか、と思う時があります。でも、クリスチャン生活で最も大切なのは、出来る限りイエスさまと同じように生きることではないでしょうか。では、どんなお手本をお示しになったのでしょう! イエスさまをお手本として、同じように神さまに従順に従うことなど、私たちにはとても出来ません。でも、その努力はしなければなりません。努力し続けなければならないのです。
 人の生まれつきの性質とは、何事も自分の好きなようにしたいと言うことです。自分のやり方を正当化する理由を見つけることにかけては、私たちは本当に優秀です。イエスさまの弟子たちさえ、自分たちも主がなさる事について意見を言う資格があると思っていたぐらいでした。
 誰かと争いになった時ー相手が誰であってもー人は、自分を不幸せにするというボタンを押してしまいます。でも、もし平静を保ち、無視されたとか批判されたとかいう侮辱を受け入れることが出来たなら、私たちが怒りを感じても、それは”正しい怒り”となるでしょう。相手より精神的に強い人間だと感じるかも知れません。なぜなら、相手に自分中心の方法を選ばせることが出来たからです。
 神さまは、私たちがもっとイエスさまに似た生き方をする努力をして欲しいと願っておられます。イエスさまは、ご自身の生涯が不公平なものとは思っておられませんでした。これは驚くべきことではないでしょうか? イエスさまはへり下って、父なる神さまに完全に従っておいででした。死に直面した時でさえ、奇跡と思えるほどの平安を保っておいででした。
 イエスさまは私たちに、この神の平安を求めておられます。しかし、私たちは、生まれながら持っている性格から、こんな反応をしがちです。
”自分にだってビックリして取り乱す権利はあるんだからな!”
 でも、これこそ神さまが、私たちに捨てなさいとおっしゃっていることである可能性大なのです。こんなメッセージを下さっています:

“わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。”
ヨハネの福音書 14章27節
 
私たちは、生まれながら持っている性格から、イエスさまが下さった、この ”心を騒がせてはなりません” というメッセージに逆らってしまいます。だが、イエスさまと同じように信じ行動できるようになるための助言が、ローマ書8章28節にあります。

”神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。”

また、こんなことも、教えて下さっていました;

“そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。”
ピリピ人への手紙 4章7節

 こんな心の平安を得ることなど、全く理解できないことかも知れませんが、私たちを創られたのは神さまであり、神さまは、私たちがどのようなものか、何を与えることができるかをよくご存知です。
 そんな私たちには、二つの選択があります:ビックリして取り乱して不幸せになるか、または、以下の選択をするかです:

“いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。”
ピリピ人への手紙 4章4節

”主にあって、いつも喜びに満ちている” のを私は選ぶと、いつも言えるようになりましょう。
 たとえ従えなくても、神さまは赦して下さいます。それは、私たちを愛して下さっているからです。神さまは、私たちに永遠の棲家を用意してくださり、日々の生活においても、そこでの問題ではなく、神さまを見つめて歩むことを求めておいでになります。
 神さまは、イエスさまが悪人たちの手に落ちることをお許しになりましたが、同じように、私たちが人々との間で問題を抱えたり、困難な環境におかれることをお許しになるかも知れません。しかし、そんな時でも、私たちが神さまを信じ、お委ねすることを望んでいらっしゃいますーイエスさまがそうされたように。
 その時こそが、学ぶのに最もふさわしい時なのです!

翻訳:奥脇省三